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気まぐれ 連載 AKB48物語その2 麻里子様誕生秘話 [気まぐれ連載AKB物語]

AKB48卒業生・篠田麻里子様誕生秘話その2回目です。


★「しょっちゅうカフェに行って話しかけていましたね」

アイドルオタクの通称ばか師匠はAKB劇場に入らずに、麻里子のいた隣のカフェに入り浸っていた。

「で、彼女の名前をアンケートに書いて帰っていました。そしたらある日その子が、”もし私が中に入ったら、見に来てくれますか”って・・・」

「当然だよ!君が入ったら絶対見るよ!!って。で、しばらくしたら彼女がカフェを風邪で休みって話でいなくって・・・。ある日曜日にもいなくて、帰ろうと駅まで行ったら知り合いから電話があって

“麻里子で出るよ”と。風邪で休んでるからそんなはずないって、あわてて劇場に戻ったら、当時はまだ満員になっていなくて公演中でも入ったらちょうどアンコールのところだったんですよ」

それから師匠は毎朝4時に劇場に並んで1番チケット取って最前列のセンターで見ていた。「歌う彼女を見ながらいつも泣いていましたね。うれし泣きです」

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「僕は結構前から、応援する女の子には”様”を付けるんです。”麻里子様”って僕が最初だと思います」


★2005年12月8日から始まったAKB48劇場でのサプライズの第一弾となったのが、カフェっ娘・篠田麻里子の正規メンバー入りである。

「ある日お店でアイスクリームを作っていたら、秋元さんと関係者の方がいきなり入ってきて、”4日後にステージに立ってもらうから、12曲覚えてください。それがAKBに入る条件です”って」

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「あのときは死ぬ気でしたね。1日目は嬉しかったんですけど、ビデオを見てやってみるとありえないくらい難しくて・・・。しかも、先生が2日間しかつかなくて、メンバーにも内緒でステージに立つから時間を調整してもらってレッスンしてもらいました。4日目は全員で合わせるために実質3日間でした。正直、寝なかったですね」

こうして他のメンバーが一カ月以上かかって覚えた歌と踊りを、死に物狂いで4日間で覚えた麻里子は2006年1月22日、ステージに立つことになるのである。

だが、オーディションで落ちたにもかかわらず、メンバーとして昇格させられたことは他のメンバーからは少なからず良く思われていなかった。

”オーディションで落ちた子でしょ”みたいな雰囲気を生んでしまい、同年代のメンバーとは壁ができてしまったのだ。



「私だけどうして後から入っちゃったんだろう・・・」

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1.5期生とか呼ばれる麻里子はメンバーとなじめずにいたが、当時13歳の高橋みなみと14歳の前田敦子は気軽に話しかけてくれて、少しずつ打ち解けられるようになるのだった。

「二人には助けられましたね。最初に助けられたって気持ちが強くて”何かしてあげたい”って気持ちがすごい強くて、二人にはライバルと言うよりも恩師的な感情ですね」

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実はこの二人に会ったことから、この二人に助けられたことから、麻里子はAKB48での自分の役割を決めたのではないかと思われる。

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★AKBメンバーと言っても当時はメジャーデビューしているわけではなく、給料はもらえなかった。

「カフェっ娘時代は時給800円の12時間労働で、休みもほとんどなかったからまだ収入がありました。AKBに入ってからはレッスンと公演だけで忙しくて。バイトする時間もないし、収入がなくて正直ご飯すらまともに食べられない時期もありましたね。地方出身のメンバーはみんなそう。だから、なんでこの仕事をやっているんだろう?って思っていました」

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芸能界入って多少がんばれば売れるんじゃないかという甘い考えだった。しかし、デビューもできない状況に不安は大きくなってきた。結局、友達の家にいつまでも居候するわけにもいかず、親に泣きついてアパートを借り、家賃分だけ出してもらっていた。だが、収入はなく相変わらずギリギリの生活だった。

「忘れられないのがAKB一年目のクリスマスイブ。夜、疲れて帰ってきて、シャワーを浴びようと裸になって蛇口をひねったのに、いつまでたっても水しか出てこない。料金の未払いでガスが止まってたんですよ。近くに銭湯もなかったから、朝まで待ってコンビニに支払いに行きました」


それでも諦めなかったのは「自分で決めて出てきたんだから、簡単に福岡には帰れない。親のためにも自分のためにも負けたくなかったんです。自分の判断を信じたかったんです」

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最初はガラガラだった劇場も混雑し始め、2006年2月にシングル「桜の花びらたち」でインディーズデビュー、同年10月シングル「会いたかった」でメジャーデビュー出来てからは状況も変わってきた。


「それでも地方の子はみんなぎりぎりだったし、私も両親から仕送りを止められそうでした。それで2年目にはAKBの本部に家賃を出してもらえるように直談判に行ったんです」

会社の反応は温かく、地方出身者にマンションを借りてくれた。「1Kの小さな部屋でしたけど、住む場所の心配がなくなったのはありがたかったですね」

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麻里子の高いプロ意識はここから始まった。

芸能界は人気商売、見られてナンボ。外見もオーラも個性も内面も輝いていて、初めて人から支持され、あこがれる存在になれるのだ。

「モアのオーディションに受かって、想像以上に難しいなと思いました。苦手な洋服も着こなさなきゃいけないし、洋服を主役にして見せなきゃならない。でも、うまくできないからこそ楽しくもあって毎月、ほとんどの雑誌を買って研究していました。タレントと違ってモデルは撮影現場では一番下の立場だと思うんですよね。余計な自我を持たず、みんなの意図をくんで洋服を引き立たせて見せることそういう謙虚な姿勢を学べたのも良かったなって思う」

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★オープニングメンバーオーディションの応募数7924名中、最終審査(2005年10月30日):合格者24名の中には入れなかったが、夢をあきらめずに、たった4日間で12曲を覚えてAKB正規メンバーの座を勝ち取った麻里子。数々の苦労があって現在の位置があるのだ。

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麻里子の高いプロ意識はモアのモデル時代に培われたのだと思う。

AKB以外の活動で自分の力量を客観的に見つめて、自分に足りないものやAKBメンバーに

伝えなければならないことなどを吸収していくのだった。



そして、2008年、夏。

今となっては「48グループを救うことになる」出来事が起こる。


つづく。。。。


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