奇跡のアイドル・指原莉乃物語 その1 [指原莉乃物語]
1、指原莉乃誕生からアイドルオタクの大分時代
1992年11月21日指原莉乃は大分県で生まれた。
その6日後には元横綱の貴乃花と女優の宮沢りえさんの婚約が発表されて
世間が大騒ぎしていた頃の話です。
家族は両親と5歳違いの兄がいます。
お兄さんは運動もできるし頭もいい学校での人気者でした。
それに引き換え彼女は昼休みになっても教室に残るという
ちょっとくらいタイプでした。
小学校1年の頃にテレビ番組でモーニング娘。を知ってからは
アイドルにのめり込んでいきました。モーニング娘。が
loveマシーンでブレイクしていた頃ですから
子供たちだけではなく大人達もカラオケで盛り上がっていた時代だ。
ところが学年が上がるにつれて他の同級生は違うことに興味を持ち始めますが
彼女だけはアイドルの話ばかりしている変わった子でした。
小学校2年の時に自宅にパソコンがやってきました。
両親がパソコンを自由に使わせてくれたために操作方法を覚えるのも速かったし
アイドルのファンサイトから情報もらったりアイドルトークを交わしたりすることが
楽しみのすべてだった。
中学生の頃の指原莉乃が応援していたアイドルはBerryz工房の熊井友理奈
C-uteの萩原舞、それにモーニング娘。の亀井絵里だ。
↑熊井友理奈さんの若いころ
彼女はそんなアイドルたちのコンサート行ったりイベントへ行ったり
握手会に行ったりするアイドルオタクだった。
当時の現場では結構有名なオタクでした。
なんといっても、手作りのメッセージボードをぶら下げて
全身にアイドルの生写真を身体に貼り付けてくる女ヲタなんてそうそういません。
そこまでアイドルにのめり込んではいましたが、自分がアイドルになりたかった
わけではないらしいです。その当時は「アイドルとはなりたいものではなく
見たいもの、愛を注ぐ対象」なのだった。
そんな彼女がAKBに応募したのは1つの事件がきっかけでした。
話は戻りますが、大分時代の彼女の知人友人たちが必ずこう言います。
「指原はすごく優しいです」
障害を持った男の子の世話役をかってでていたし、その子が給食を吐き出すと
「大変~」なんて言いながら、いつも真っ先に掃除してあげていました。
修学旅行の班決めで誰からも誘われない子がいると仲間に入れてあげました。
自分が悩んでる時は、必ず隣に指原莉乃がいました。とか、
大分時代の知人たちから語られたエピソードです。
ごく一般的な公立の中学校に入った指原莉乃は吹奏楽部に入りました。
「たまたま吹かせてもらったら音が出たから」と言う安易な理由で
トロンボーンを担当しました。
「変に目立つのが苦手なんです。みんなと同じじゃないといけないという
雰囲気にもついていけませんでした。結局、目立ちたくないから、将来的に
敵を作らない程度の消極的な優しさだけだったんです」
頑固に目立つことを避けていた彼女でしたが、中学2年生のある時期から
体育会系の女子グループに目を付けられていじめのターゲットになりました。
「はじめのうちは廊下ですれ違うと意味もなく爆笑されたり、
陰でぐちぐち悪口を言われたり・・・でも特別悩んだり、悲しいとかは思わなかった
ただ、なんでこんな事をするんだろう。私の何が気に入らないんだろうって・・・」
3年生になってもイジメは治まるどころかエスカレートしていきました。
「ある日学校から帰って家のポストを覗いたら、何も書いていない封筒が入ってました。
中を見たら汚い字で もう学校には来ないでください。よろしくお願いします
って書いてありました」
彼女は鼻の奥がツンとするのをこらえると、「くだらない」とつぶやいて
その手紙をゴミ箱へ捨てました。
「誰にも言いませんでした。めんどくさいから・・・・心配されるとか」
その頃から学校に行くことに意味を見いだせなくなり、中3の夏休みは明けた頃から
不登校になりました。
進路を考える時期でもあったために、両親や塾の先生には地元の高校の
国際コース進学しそこから留学したいと伝えていました。
しかしそのひと月後予想もしなかった報告に家族全員が驚愕することになります。
「 AKBの書類審査に通ったって母に言ったら驚いていました(笑)」
不登校で心配してるところにいきなりアイドルの1次試験に通ったなんて
驚かない親がいたら逆に心配である。
「東京に出たかったんですよ。私その年の3月に福岡で行われたAKBの
春のちょっとだけ全国ツアーにファンとして見に行ってたんですよ、母と」
この段階では母も本人も受かりっこないと考えていた。
だから面接の二次審査のために上京した時も2人とも観光気分でした。
しかしそれ以上に心配していたのは父親でした。
父は母に大分を発つ前にこう言ったのでした。
「受かるかもしれないから、担当者に言って、裏でこっそり落としてもらえ」
そんな父の心配をよそに彼女は合格後の飛行機の中で
母の隣で泣いていました。合格したにも関わらず。
「うれし泣きではなく不安泣きでした。だって、父が許すはずなかったから
母からもダメって言うだろうけど覚悟してね、みたいに言われてました」
自宅に帰って父に合格を報告すると
「好きにしなさい」と言ってくれました。ただし条件として
1人で上京なんてさせない。お母さんがついて行くなら許す。と言われました。
こうしてアイドルオタクで不登校児だった田舎娘の状況が決まったのだった。
2007年10月、指原莉乃15歳・奇跡のアイドルの誕生である。
1992年11月21日指原莉乃は大分県で生まれた。
その6日後には元横綱の貴乃花と女優の宮沢りえさんの婚約が発表されて
世間が大騒ぎしていた頃の話です。
家族は両親と5歳違いの兄がいます。
お兄さんは運動もできるし頭もいい学校での人気者でした。
それに引き換え彼女は昼休みになっても教室に残るという
ちょっとくらいタイプでした。
小学校1年の頃にテレビ番組でモーニング娘。を知ってからは
アイドルにのめり込んでいきました。モーニング娘。が
loveマシーンでブレイクしていた頃ですから
子供たちだけではなく大人達もカラオケで盛り上がっていた時代だ。
ところが学年が上がるにつれて他の同級生は違うことに興味を持ち始めますが
彼女だけはアイドルの話ばかりしている変わった子でした。
小学校2年の時に自宅にパソコンがやってきました。
両親がパソコンを自由に使わせてくれたために操作方法を覚えるのも速かったし
アイドルのファンサイトから情報もらったりアイドルトークを交わしたりすることが
楽しみのすべてだった。
中学生の頃の指原莉乃が応援していたアイドルはBerryz工房の熊井友理奈
C-uteの萩原舞、それにモーニング娘。の亀井絵里だ。
↑熊井友理奈さんの若いころ
彼女はそんなアイドルたちのコンサート行ったりイベントへ行ったり
握手会に行ったりするアイドルオタクだった。
当時の現場では結構有名なオタクでした。
なんといっても、手作りのメッセージボードをぶら下げて
全身にアイドルの生写真を身体に貼り付けてくる女ヲタなんてそうそういません。
そこまでアイドルにのめり込んではいましたが、自分がアイドルになりたかった
わけではないらしいです。その当時は「アイドルとはなりたいものではなく
見たいもの、愛を注ぐ対象」なのだった。
そんな彼女がAKBに応募したのは1つの事件がきっかけでした。
話は戻りますが、大分時代の彼女の知人友人たちが必ずこう言います。
「指原はすごく優しいです」
障害を持った男の子の世話役をかってでていたし、その子が給食を吐き出すと
「大変~」なんて言いながら、いつも真っ先に掃除してあげていました。
修学旅行の班決めで誰からも誘われない子がいると仲間に入れてあげました。
自分が悩んでる時は、必ず隣に指原莉乃がいました。とか、
大分時代の知人たちから語られたエピソードです。
ごく一般的な公立の中学校に入った指原莉乃は吹奏楽部に入りました。
「たまたま吹かせてもらったら音が出たから」と言う安易な理由で
トロンボーンを担当しました。
「変に目立つのが苦手なんです。みんなと同じじゃないといけないという
雰囲気にもついていけませんでした。結局、目立ちたくないから、将来的に
敵を作らない程度の消極的な優しさだけだったんです」
頑固に目立つことを避けていた彼女でしたが、中学2年生のある時期から
体育会系の女子グループに目を付けられていじめのターゲットになりました。
「はじめのうちは廊下ですれ違うと意味もなく爆笑されたり、
陰でぐちぐち悪口を言われたり・・・でも特別悩んだり、悲しいとかは思わなかった
ただ、なんでこんな事をするんだろう。私の何が気に入らないんだろうって・・・」
3年生になってもイジメは治まるどころかエスカレートしていきました。
「ある日学校から帰って家のポストを覗いたら、何も書いていない封筒が入ってました。
中を見たら汚い字で もう学校には来ないでください。よろしくお願いします
って書いてありました」
彼女は鼻の奥がツンとするのをこらえると、「くだらない」とつぶやいて
その手紙をゴミ箱へ捨てました。
「誰にも言いませんでした。めんどくさいから・・・・心配されるとか」
その頃から学校に行くことに意味を見いだせなくなり、中3の夏休みは明けた頃から
不登校になりました。
進路を考える時期でもあったために、両親や塾の先生には地元の高校の
国際コース進学しそこから留学したいと伝えていました。
しかしそのひと月後予想もしなかった報告に家族全員が驚愕することになります。
「 AKBの書類審査に通ったって母に言ったら驚いていました(笑)」
不登校で心配してるところにいきなりアイドルの1次試験に通ったなんて
驚かない親がいたら逆に心配である。
「東京に出たかったんですよ。私その年の3月に福岡で行われたAKBの
春のちょっとだけ全国ツアーにファンとして見に行ってたんですよ、母と」
この段階では母も本人も受かりっこないと考えていた。
だから面接の二次審査のために上京した時も2人とも観光気分でした。
しかしそれ以上に心配していたのは父親でした。
父は母に大分を発つ前にこう言ったのでした。
「受かるかもしれないから、担当者に言って、裏でこっそり落としてもらえ」
そんな父の心配をよそに彼女は合格後の飛行機の中で
母の隣で泣いていました。合格したにも関わらず。
「うれし泣きではなく不安泣きでした。だって、父が許すはずなかったから
母からもダメって言うだろうけど覚悟してね、みたいに言われてました」
自宅に帰って父に合格を報告すると
「好きにしなさい」と言ってくれました。ただし条件として
1人で上京なんてさせない。お母さんがついて行くなら許す。と言われました。
こうしてアイドルオタクで不登校児だった田舎娘の状況が決まったのだった。
2007年10月、指原莉乃15歳・奇跡のアイドルの誕生である。
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2014-01-12 00:55
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