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指原莉乃の逆転計画スタートか。「逆転力」を読ませたい人 [指原莉乃物語]

このブログでも指原さんを取り上げた「指原莉乃物語・5部作」を書いていますが、新たなネタになりそうな本逆転力 ~ピンチを待て~ (講談社 Mook)
を書いてくれました。

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本人は「私は書いていません」とゴーストライターをネタにしたトークで盛り上げているが、インタビュー形式の新書シリーズであり、軽い感じの読み物となっていて、1時間くらいで読み終えました。

この本は自分の生い立ち本ではないので、自分の過去は深く掘り下げて書いてあるわけではありません。その生い立ちや歴史から何を学んでどう考えて、自分をプロデュースしてのし上がってきたのか。

人生をどうやって生きていくのか、自分の見せ方や周囲とのかかわり方を書いています。


よかったら過去に私の書いた「指原莉乃物語5部作」もあわせてお読みいただくと、彼女のことがよくわかります。

指原莉乃・序章

指原莉乃物語・その1

指原莉乃物語・その2

指原莉乃物語・その3

指原莉乃物語・その4






ある意味、自分の経験談ですが、それが現在の「成功者」となった方法論になっています。
目次を列挙すると・・・・

     ■第一章  ピンチが背中を押してくれる
     ■第二章  自分だけの武器を見つける
     ■第三章  振られたキャラは否定せず受け入れる
     ■第四章  人生最大のピンチと”逆転”の思考法
     ■第五章  ”みんなで勝つ”ための戦術 -指原流プロデュース術
     ■第六章  対人関係に必要なのは”度胸”と”客観視” 指原流コミュニケーション術
     ■第七章  ”アンチ”も力に変える -指原流仕事術
     ■第八章  ”切り替え”と”思い込み”で逆転できる -指原流思考術
     ■第九章  逆転力で楽しく生きる

この目次だけでは内容は全くつかめないが、彼女は自分のこと周りのことも客観的に見ることができる
という能力を持っていると思う。

いわゆる物事を俯瞰で見る、人間観察力の高い人間であり、その結果から自分が次にどのように振る舞えば自分がもっと楽しめるか、自分がもっと輝けるか最終的には、周りがもっと楽しんでくれるのかということまで分析して、それを行動に移せる能力のある人間なのだと思います。

指原莉乃と言う人はアイドルでなかったら芸人か放送作家かそういった人間でも成功してるのではないかと考えます。


本人にも語ってるように「可愛くないし歌や踊りだって極端にいいわけでもない」正統派のアイドルとしては戦えない状態から、自らのピンチをチャンスに変えて、自分の居場所を見つけて激しい競争社会を勝ち抜いてきました。

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なぜ指原莉乃がここまで逆境を乗り越えてAKB48グループのナンバーワンとなったり、アイドルとしての年収がナンバーワンとなったりするまでの成功を掴み取ることができたのか。


それはAKB48時代の指原莉乃に要所要所で助言やアドバイスをくれる秋元康さんの存在が大きいのでしょう。

あの伝説の「ブログ1 日100回更新」のきっかけをくれたのも秋元プロデューサーですし、彼女のMCの能力を見抜いて、初代チームB時代の「ドリアン指原」というキャラクターをつけてくれたのも秋元さんでした。

それからバンジージャンプを飛べないという失敗で、「へたれ」キャラを作られてへこんでいる彼女を救ったのも、「指原のへたれなところ弱いところを応援しているファンが多いんだぞ」といった秋元さんも一言でした。


ただ、例えば指原以外の人間が指原の立場だった場合、同じ様な状況で同じような言葉をかけられたとしても、彼女のように「なにくそっ」と這い上がってくる力はなかったかもしれません。

そういったピンチをチャンスに変えてはいあがれたのは指原莉乃だからだったからなのでしょう。

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胸は残念




彼女のアイドル人生における最大のピンチを2012年の第4回選抜総選挙で第4位になった直後に起こりました。

AKB48グループは恋愛禁止ルールがありますが、指原が研究生時代にあるファンと恋愛関係にあったとされる写真が週刊文春に掲載されたことでした。

ルールを破ったというはっきりした証拠が見つかった場合は運営サイドからなんらかの判断が下されることになっていました。謹慎 研究生への降格 活動辞退 などです。


「私としてはAKB48をやめようと思っていました。 AKB48を応援しているたくさんのファンの方に申し訳ないと思ったし、メンバーに迷惑をかけたくなかったからです」


秋元さんにもそう伝えました。

すると「わかった。本気で芸能界にしがみつきたいと思う人しか残らなくていいから」と言われたそうです。


そしてあの指原莉乃HKT48完全移籍という「神決断」がなされたのです。

当時彼女は19歳でした。「君は明日からHKT48です」と突然の転勤命令です。

HKT48に行って貢献しなさい。秋元さんにそう言われました。

「総選挙で4位になってこのまま1年間普通に過ごしても、指原莉乃の人気が盛り上がる事は無い。HKT48に移籍して頑張る、これ以上おもしろいことってないと思うよ」

一生懸命探せばラッキーってどこにでも見つかると思うと語っていますが、普通の女の子ならいきなり東京から博多へ転勤と言われて落ち込まない人はいないと思います。

普通のサラリーマンでも嫌だと思います。でも彼女一晩寝て起きた次の朝にはすっかり気持ちを切り替えていました。元気になるのがすごく早いんです。

どんなに嫌だ嫌だと思っても、決まったことは決まったことです。だったら嫌だって思ってる時間がもったいない。ラッキーを探した方がいい。

彼女はそういう風に思う人間なのです。ピンチの時に心切り替えて、前を向いていた方が、ラッキーって見つけやすい。見つけたラッキーを現実にしやすくなるんだと思います。

・・・・・というふうに当時の自分の心境や周りの状況を書いてあります。

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美脚が売りです。


この第4章からが博多に移籍になってどういう活動をしてきたか、年下メンバーとのかかわり方、劇場支配人としてのプロデュース力などなどをどうやって発揮してきたのか。

彼女なりの処世術がつづられています。この方法は実は若い社会人にこそ読んでいただきたい。軽く読めるし、今自分が悩んでいることを解決するヒントが詰まっていると思います。

そして指原本人は「来年の総選挙1位返り咲き」を狙ってどんな「逆転力」を発揮してくれるのか。

AKBグループでは、ライブが今一番面白いといわれるHKT48のプロデューサーとしての手腕も楽しみにしたいですね。


逆転力 ~ピンチを待て~ (講談社 Mook)
は、8月11日発売ですがすでに7万部の記録しています。近所の書店では売り切れでしたが、アマゾンでは普通に買えました。同時に読んでほしいのが2012年1月発売の指原莉乃1stフォトブック『さしこ』 (講談社 Mook)
です。







【Amazon.co.jp限定】 指原莉乃写真集 猫に負けた オリジナル生写真付
















奇跡のアイドル・指原莉乃物語・画像付 その4 [指原莉乃物語]


さて、好評なのか不評なのかよくわかりませんが、勝手に続けます(笑)
今回が4回目です。


4、へたれから、伝説のブログ「指原クオリティ」そして「さしこのくせに」でブレイクへ



「聞いたことないよ。アイドルなのに へたれ なんて呼ばれる奴は(笑)」

後藤プロデューサー


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お蔵入り寸前だったバンジージャンプの映像がきっかけで「ヘタレタレント」として

名前が売れ、あの失敗だけで ヘタレというイメージがどんどん広がって指原は

ダメ人間と思われていたが、 AKB劇場での指原は誰にも負けない

隠れた努力家であった。



当時、指原は選抜ではなかったが「RIVER」や「ポニーテールとシュシュ」などは

全ポジション対応できたし、直前の代役でもしっかり覚えてくるので

スタッフの信頼も厚かった。



「私だけじゃないんです。ただ立ち位置と振り付けは最初のリハーサルまでに

 絶対に覚えてきます。アンダーガールズだった1年間で鍛えられました。

 イベントなどでは選抜曲もやるから、 DVDで覚えるんです。

 でも左右反転で覚えにくいから、私は紙に絵を描くんです。

 棒人間を書いて覚える。キモイでしょ(笑)」



他人に迷惑はかけたくない。そういう思いが根底にある。彼女はそういう人間だ。


「先輩は踊れるのに、自分のせいで時間が止まってしまう。私はそれだけはした

 くないから立ち位置と振りは何があっても間に合わせる。

 これだけはちゃんとやってきたと言う自信があります」

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もう一つ指原がこだわっていることがある。

それはファンとの握手会だ。

「 まず、休みたくないです。私と1回握手をしてくれるために

 会社の有給を使ってきてくれる方や、お金と時間をかけて遠方から来てくれる方

 もいます。自分がアイドル好きだったから、アイドルが好きな人の気持ちだけは

 わかっているつもりです。だから、自分にファンがいるのは当たり前なんて

 絶対に思いません。私が誰かのファンだった時に、そう思ってほしくないって

 思っていたから・・・・」



2010年4月30日 アメーバブログにて「指原クオリティー」がスタートする。

初回はメンマを食べ過ぎて箸がメンマくさい話。

2回目は消えて気づいたネギへの恋心。

翌日は不遇なバナナにエールを送った話。

「あまりにくだらない(笑)」



ところがその二日間で1万件を超えるコメントを寄せられた。



「もうびっくりです!! ありがたやって感じでした。予想外に嬉しかったです」


そしてその日、指原のケータイに1通のメールが届く。


「それがなんと、秋元先生からだったんです。メールなんて初めてだったから、

 超怖かった!! 恐る恐る開いたら "ブログおもしろい" とただそれだけ。

 真面目に頑張ろうと思いました。アイドルとして」


一方、秋元康氏は周りのスタッフに「あいつはこっち(制作)側の人間だな。

 アイドルやめて放送作家になったほうがいい」と本気で言っていたという。



・・・さすが秋元康、この時すでに指原莉乃のプロデュース能力を見抜いていました。

今でこそHKT48の劇場支配人を兼任している指原ですが、いずれはそういう道に

引っ張り上げようとしていたのではないかと考えられます・・・・


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指原莉乃はブログでの人気も手伝い、第2回総選挙では19位にジャンプアップし、

そして5作品ぶりの選抜復帰を果たします。

しかし、その作品「ヘビーローテーション」のミュージックビデオでは

わずか3.5秒しか映れずに、凹みまくりました。



「ファンの皆ががっかりしちゃうだろうなで思っていたら、俺視力いいから探す

 とか、見つけてやろう、とかもう一回探してみます。なんていうコメントが多くて

 嬉しかったです。複雑な気もしたけど」



その後第一回じゃんけん大会では、大先輩の大島優子に勝利して動転し、

その場で土下座したというヘタレぶりを発揮しました。

さらに12月には番組のインタビューでブログの順位について聞かれて

うっかり「 1位になれるのならなりたい」と言ってしまい、ブログの

一日100回更新の企画が決まってしまいました。



「計算したら7分で書いて、 7分休んでのスピードなんです。一睡もしないで

 でも断ったらまたヘタレってて言われると思って、正直ちょっと泣きました。

 だって昼も夜もごはん食べる暇なかったし・・・・」


だが指原のブログは初の1位を達成する。一日3,500万ページビューを記録し

アメーバブログ歴代トップに輝く。


「もう奇跡! じゃない努力! それは私がなくてみんな。ファンの皆の努力。

 皆さんのコメントがなかったら絶対にギブアップしてたと思う。

 私の中ではあの企画は完全に読者の皆様と戦ったという感覚です」

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指原莉乃は地方組との1か月間が終わってからは、母と二人暮らしを続けていた。


「しかも最近まではワンルームで2人暮らしですから狭い狭い。

 お仕事から帰ってきてのびのびとという感じではなかったです。
 
 でも結構母が気を使ってくれて、私が帰るまでお風呂に入らない

 でいてくれたりしました。私が1人の時間を作ってくれるために。

 私が帰ってから母がお風呂に入れば、その間は私が部屋に1人で

 いられるじゃないですか。 AKBっていつも団体行動だから

 そこは気を遣ってくれたみたいです」


家での指原は仕事の話をほとんどしない。聞かれたくないのを知っていて

母も話題に出さない。尋ねたいこともあるだろうけれど、

母子2人のワンルーム暮らしで息が詰まるような思いはさせたくなかった。

・・・・そんな母が入院した。




「深刻なやつじゃないです。むしろ嬉しい入院。お母さん10年くらい

 ずっとある病気を患っていたんです。普段はなんともないですけど。

 治らないって言われていたのが、東京の病院でなら治せることが

 わかって、 3週間ほど検査入院したんです。

 私はワンルームマンションの広さにびっくりしました。

 超快適でした。料理はしなくてもカップラーメンで満足だし、

 週末はお母さんが戻ってきて洗濯をしてくれました。

 いると甘えちゃうのがダメなんでしょうね。

 いなくてもだいじょぶだったから、母とケンカすることもないしで

 一人暮らし万歳って感じでした」



その後、母の治療も進み、病気は完治した。

一方で指原はうなぎ登りに人気を上げていく。

2011年1月はAKB48グループ初の個人での冠番組「さしこのくせに」

がスタートする。さらに6月の第3回総選挙では前年から9人をごぼう抜きして

第9位となる。とうとうトップテンに躍り出た。


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「今回この9位という順位で、まさかメディア選抜に入れると思ってなかったので

 本当に本当にうれしいです。指原は自分に自信がなくて、ダンスも下手だし、

 歌も下手だし、かわいくないし、誇れるものは今までなにもなくて。

 でも、4万5000票も投票してくれた皆さんが本当に誇りです。去年は3.5秒しか

 PVに映れなかったので、今年は1秒でも長く映りたいと思います」






この頃から「さしこのくせに」を始めとする数々のバラエティー番組で

彼女は抜群のトーク力を発揮する。独り立ちする日は来るのだろうか。


「 AKBを踏み台に、なんて私にはとても言えません。

 そんな事考えられない。 AKBとして活動してることが今凄く嬉しいし

 AKBとして大きくなりたいと思ってる自分もいる。 前列になりたいって。

 多分、自分からは一生やめないと思う。今話をしていてこんなにAKBが

 好きなんだって自分でもびっくりしています」
 2011年コメント



無我夢中で走り続けてきた3年半。気がつくと大分から出てきた田舎娘は

今や最も有名なアイドルグループを代表する1人にまで成長していた。




2011年6月21日夜。指原莉乃は渋谷に立っていた。

昼間ロケ出来た時は嘘のようなその光景に実感が湧かなかった。

だからもう一度この目で確かめたくて、電車で1人やってきたのだ。


ゆっくりと顔を上げるとそそりたつ渋谷109ビル。

その中央に自分の姿が巨大ポスターとなって張られていた。


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「夢じゃなかったんだ・・・・・」




幼少時代からあこがれていた東京。

漫画で知って以来、渋谷の109は指原にとって東京そのものだった。

そんな自分がまさか広告のモデルとなりここに貼られる日が来るなんて。




「遠くに来たなぁ・・・・・」



それは大分と東京との距離は800kmの事ではなかった。

人付き合いが苦手で不登校になり、新しい風を求めていた数年前。

後先も考えずカバンにジャージと夢だけを詰め込んで

セーラー服で上京して来た。


「私はダメな人間。優等生じゃない」



それを知っているからこそ与えられた場所で必死にもがいてきた。




「指原にはそれしかできないんで・・・・。

 欠点だらけの人間だけど それでも今できることだけを頑張って

 汗をかく事なら私にだって出来るから」


スクランブル交差点の信号が変わり人々の群れがより糸のように

クロスして行く。ヘタレと呼ばれ愛されるひ弱で華奢な少女が

眩しく見えた。


「期待してくれる人がいて立たせてもらえる場所がある。

 幸せ者だなって思います。こんな自分でも誰かの役に立てる

 時だってある。だったらもっと頑張らなくちゃですよね」



もう一度ビルを見上げると携帯を出して写真を撮った。

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「こんな奇跡、もう二度とないので(笑)」


はにかんだ笑顔で彼女は言った。

少女の上京物語はまだ始まったばかりだった。




奇跡のアイドル・指原莉乃の波乱万丈の物語も

まだ始まったばかりだった・・・・


つづく。。。。


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奇跡のアイドル・指原莉乃物語・画像付 その3 [指原莉乃物語]

3、幻のチーム4から、アンコールなし事件、 歓迎されなかった昇格、           そしてヘタレと呼ばれる


「奇跡だったと思う。それほど気の合う人間が揃った。

   あの期間がなかったらきっと私、やめていたと思います。」




指原莉乃がのちにそう語ったあの地方組との共同生活は、彼女にとっては

唯一の心安らぐ場所だった・・・・



指原は当時、チームAはともちん。Kは梅ちゃん。Bははーちゃんのアンダーとして

公演に参加できるぐらいの技量はあった。


「結局、チームB公演にはアンダーとしていちども出られずにおわりました。

 毎日練習したのに、すごく残念でした。

 でも、それ以上に嬉しい発表があったんです。 AKB初の試みとして

 研究生だけで公演をさせようってなったんです。

 当時はまだ子供だったから飛び上がって喜びました。

 純粋な気持ちで頑張ろうって思いました。でも、レッスンは厳しかったです。

 スパルタです。「 only today」という曲で全員で肩を組みながら、体を前後に傾けて走る

 と言う振り付けがあるんですが、それが揃っていないと言われて、

  100回以上繰り返し練習させられました。

 みんな頑張ったと思う。鏡が息で真っ白だったもん。

 初日を終えたときにはみんなで抱き合って泣きました」

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夢に向かってがむしゃらに汗をかく姿は、観客の心を瞬く間につかみ

研究生目当てのファンが急増しました。


「このチームあっての私。だって思ってました。

 今振り返っても、私にとって最高のメンバーでした。みんなで言ってました

 うちらだけでチーム4になりたいね。って。

 今では本物がありますが、当時、 チーム4は勝手に結成されていたんです」



だが、マネージャーからは全く認めてもらえなかった。



「毎回、全然できていない! この程度か! と叱られました。

 1番悔しかったのは、初期メンバーと比べられること。

 あいつらは何もないところから頑張った。ファンも付かずに苦労した。

 それに比べたらお前たちの苦労じゃないって・・・

 私たちだってわかってるんです。めちゃくちゃ尊敬の対象でしたし、

 でも私たちだって、すべてを劇場公演にかけて頑張ってる。

 だから本当に頭にきました」



なぜスタッフは研究生に厳しく当たったのか。

実は活を入れられていたのは研究生だけでもなかった。当時のAKB48は

結成して2年半。 10枚のシングルをリリースしたものの、ブレイクには結びつかなかった。

桜の花びらたち2008を最後にデフスターレコードとも契約が終了。

「ここまでなのか」声には出さないがだれもがそう思っていた。

だからこそ全員が一丸となって気持ちをリセットしないとAKB48は終わってしまう。

そういった危機感に包まれていた。




そんな中、AKB48劇場公演史上、唯一の汚点となるあの事件が起こった。。。。



「ある日の公演前にスタッフさんから告げられました。

 今日は3分以内に客席からアンコールがかからなかったら、アンコールはやりません。

 と。でも私たち劇場公演だけは自信があったんです。先輩たちは他の仕事もあったけど

 私たちは劇場公演に全力を傾けてきたので、だからきっと大丈夫そう思っていました」



13曲を歌い終えて楽屋でアンコールの声を待つメンバー。

もちろん観客は3分以内という話を知らない。 1分、 2分と時間が過ぎる。

不安げに顔を見合わせる研究生たち。







時計の針が3分を過ぎた直後だった。ようやくいつもの声がかかった。

次の瞬間、スタッフは楽屋のドアを開けてこういった。

「アンコールは中止します。最後の挨拶をするのでステージに出てください」






「それでアンコールの衣装を着たままステージに上がり、中西優香が出て

 私たちを代表して言いました。

   今日は私たちの未熟なパフォーマンスのせいで      最後まで出来ずに申し訳ありませんでした

 て謝ったんです。舞台裏に戻って ウッ・・・ウッ・・・と泣いていたら

 客席から 研究生は悪くないから! という声が聞こえてきました。

 それで余計にみんな号泣しました・・・」




同じ挫折を味わったことで、研究生たちの絆は更に固いものとなった。

実はこの数日前に指原のチームB昇格が発表されていた。




「取材などでは、入るならBかKがいい。と答えてきましたが、本心は

 みんなで昇格して新チームを作りたかった。でも私の前に北原がチームAに

 昇格して、今度は自分自身がチームBに決まりました。昇格出来た事は

 嬉しかったんですが、私にあやりん(菊地あやか)の代わりがつとまるなんて

 思えなかったし・・・・・」




8月。それまでチームBの三番手ポジションと言われてきた菊地が解雇され、

ほぼ同じタイミングで指原のチームB昇格が決まった。つまり、

菊地が抜けた穴を埋めるためだったのだが、そのことで指原莉乃の

最大の苦悩時代が始まった。。。。




「あやりんのポジションに立ちたかった先輩もいたわけですし、

 何か、私がポッと入ったみたいで申し訳ないというか。

 居場所がなく、辛かったです・・・・・」



歓迎してくれたメンバーもいたので、ギクシャクしたのは最初だけだった。

しかし、それ以上に指原を苦しめたのは、菊地が抜けた行き場のない悲しみを

代役にぶつけざるを得なかったファンの気持ちだった。

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「あやりんがセンターで歌っていた 鏡の中のジャンヌダルク という曲があって

 少女たちよ立ち上がれみたいな力強い曲なんです。それで私も拳をあげて

 歌ったんですが、ふと前を見るとお客さんが涙を流していたんです。

 悲しい曲じゃないのに、あやりんのこと思って泣いていたんだと思います。

 その気持ちは痛いほど分かります。でも私だって、徹夜で覚えてきたのに。

 そこに立つのはお前じゃない!! と言われてる気がして、鼻の奥がツンとしたけど

 唇を噛んで堪えました。その曲になり、私が歌い出すと席を立つ人もいたっけ・・

 握手会では お前のジャンヌは違う!! って言われて、すみませんしか言えなかった。

 私でごめんなさいって・・・・。

 ジャンヌの歌詞では無いけれど 鏡の中で生まれ変わりたい そう思いました」

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それでも歌い続けるしかなかった。ステージ上でジタバタと汗をかいて

やり続けるしかなかった。菊地が解雇されたのは指原のせいではない。

ファンだってそんなことはわかっていた。だが、どうしようもなかった。





・・・・・やがて菊地のファンが言ってくれた。

「あるファンの方が握手会の時に言ってくれたんです。  

 今まできついこと言ってごめんね。さっしーが頑張ってるのをわかったから

 応援するからって・・・・・。

 私、伝わったんだって思ったら嬉しくて泣いちゃいました」




昇格してから半年が経っていた。・・・・やっとチームBの一員になれた気がした。

シングルでは 大声ダイヤモンドに初選出されると、 10年桜、涙サプライズにも

連続選抜入り。指原莉乃は再びノッテきた。

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「・・・・・と思ったのですが、ここで再び地の底にドーーーーーーンと

 落とされる出来事がありました。第一回の総選挙です」


選抜の枠は当時21人。


「入れるとは思わなかったけど、入れなかったら、もうシングルには

 一生入れないだろうって北原や宮崎美穂と話していました。

 だってファンの方が直接決めるわけですから。当日は朝から

 悲しくて吐きそうでした」



結果、北原は13位、宮崎は18位で共に選抜入り。だが、指原は27位に終わった。

壇上で彼女は 本当に悔しいんですが1票でも入れてくれたファンの皆様に

お礼を言いたくて と涙声でコメント。最後には「ヲタ芸をもっと頑張ります」

と会場を笑わせて再起を誓った。



だが、舞台袖へ下がった瞬間、指原は足から崩れ落ちた。


「立ち上がれなくて、結局その場で2時間ぐらい泣いていたと思います。

 もう指原しか残っていないと言われて、最後に会場出ようとしたら

 北原がずっと待っていてくれた。それで また泣いちゃった・・・」


しかし本人の予言通りこれより1年間、次の総選挙まで選抜入りが叶う事はなかった。


そんな中、 7月には第二の冠番組「週刊AKB」が放送開始された。

選抜入りを望めぬ指原は、上位メンバーの活躍を自宅のテレビを見ながら

ずっと待っていた。夏が終わり秋を迎えた2009年9月中旬。

その番組に出演のチャンスが回ってきた。ロケ現場に着くと、

バンジージャンプに挑戦する企画であることがスタッフから告げられた。

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「絶対飛んでやろうと思いました」


ロケに参加したのは指原のほか、板野友美、河西智美、 仁藤萌乃の4人。

カメラに向かって威勢よく親指を突き立てた指原だったが、スタッフの

デモンストレーション見た時点で早くもボロボロと涙が・・・。



まず板野が飛んだ。次いで河西、仁藤が恐怖を克服し橋の上からジャンプした。

だが、指原は・・・・・


「だって42メートルですよ。本当に飛びたいと思ったんです。必ず4人全員で

 成功させようって約束したし・・・・。

 でも 20分粘ったんですけど、リタイアしてしまいました」


メンバーとの約束を破ってしまった指原は激しく落ち込んだ。

「それで次のスタジオ収録の時に、つい言ってしまったんです。

 リベンジしたいって」

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この一言が番組スタッフを翻弄することになろうとは・・・

週刊AKBの後藤プロデューサーは

「今度こそ飛んでもらわないと洒落にならないから、体操の専門家のもとで練習してもらって

 本番も20メートルくらいの低いジャンプ台にして。当日、指原に確認したら

 怖いけどだいじょぶです と言う。

 これなら恐怖に怯えながらも最後にバーンと飛んで、いい絵になりそうだなと

 思ったんですよ。そこで、仁藤がお手本で飛んでくれた。

 この流れで飛ばないわけないと。。。。

 なのにまさか やっぱり飛べません!! ってなるとは(苦笑」




お蔵入りも考えた、仮編集映像を見て後藤は驚いた。

「見ているこっちはちっとも暗くならない。こんなダメな奴見たことないって

 逆に盛り上がった。このまま放送しちゃえって。」



恐怖を克服し視聴者に勇気を与えるはずの企画が、笑いを与える結果となった。

指原のダメぶりを見た視聴者は、こぞってその姿を話題にし、

後に指原の代名詞ともなる3文字が誕生した。



「聞いたことないよ。アイドルなのに へたれ なんて呼ばれる奴は(笑)」

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人生、何が幸いするかわからない。

お蔵入り寸前だった映像がきっかけで「ヘタレタレント」として名前が売れて

視聴者に勇気や笑いや、感動を与える・・・なんとなく見守っていきたい

なんとなく応援したい、そんなアイドルとなるチャンスを得たのである。


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ただ、あの失敗だけで ヘタレというイメージがどんどん広がって

指原はダメ人間と思われていたが、 AKB劇場での指原は誰にも負けない

隠れた努力家であった。



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・・・次回は根性と努力でのし上がっていく指原莉乃を追いかけます。





















タグ:指原莉乃

奇跡のアイドル・指原莉乃物語画像付 その2 [指原莉乃物語]

2、泣いてばかりの辛く苦しい研究生時代・・・・


2008年1月母とともに上京し指原莉乃はAKB劇場でのレッスン初日を迎えていました。

母は東京で娘と暮らすアパートを探していました。 2つ目の物件を案内されていたとき

不意に電話が鳴った。

「お母様ですか? 莉乃さんが腰を痛めて動けないので迎えに来てください!!」

AKB48のスタッフからだった。




「初日も初日。踊りだしたら腰に激痛が走って立てなくなったんです」指原


駆けつけた母はレッスンから外れて通路のソファーにうずくまり

苦痛に顔をゆがめる娘を見た。

出鼻をくじかれた悔しさに泣く娘の横で、母は別のことを思っていた。

もし、このまま腰が悪いようだったら莉乃はこれで終わりなのだろうか。

今日、上京して来たばかりなのに、どうしよう・・・・・・。




「そしたら、先生にあっさり言われたんです。君、全然体を動かしてなかったでしょう。

急に踊ったから腰がびっくりしたんだよ。わははははは。 1週間安静にしていれば

治るよ」

医者に言われた事をクビを覚悟で恐る恐るそう告げた母にスタッフは

「それなら見学だけでもさせてください」と返事した。

母は思った。よかったやめさせられなくて・・・・



ところがその夜、指原は母に弱音を吐いた。

「レッスンが厳しい事は来る前から知っていました。でも体が無理だった。

それで、あんなのできん、大分に帰るって言ってしまいました」

それを聞いた母は突然怒りだした。

「何言ってるの!!

   みんなが、どんな思いであなたを東京に出してくれたと思ってるの!?

たった1日で帰りたいとか言える立場じゃないでしょ!!」


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・・・母は知っていた。私、 1人でも東京にいくからという娘の決意を。

だが同時に、家族をバラバラにしたくないという夫の本音も知っていたからだった。

「そんな経緯もあったのに帰りたいなんて言ったから怒られた。

 しかも翌日からは知らない人たちと一緒に共同生活をすることになっていたのも

 不安だったんです。友だちを作れないタイプなのに一緒に住むなんてありえない

 って思っていました。性格が合わなかったら地獄じゃないですか・・・」




4期生と5期生のうち地方から来たメンバーによる共同生活が始まった。

通称"地方組"と呼ばれる指原莉乃・北原里英・大家志津香・中西優香・卒業メンバー

の5人である。

あれほど心配していた共同生活は、実は天国だった。


「奇跡だったと思う。それほど気の合う人間が揃った。

   あの期間がなかったらきっと私、やめていたと思います。

   たった1ヶ月間でしたが、超仲の良いグループで修学旅行に行ったみたいな

   時間でした」


AKB48のトキワ荘とも呼ばれた地方組の5人は24時間一緒だった。

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「朝8時ごろに起きて9時過ぎに家を出て、おしゃれスポットの恵比寿ガーデンプレイスの

中をスエット姿で通り抜け、徒歩10分のレッスン場に行きます。

終わったらまたみんなでぞろぞろと帰る。その時に必ずレッスン場で出される

仕出し弁当を夜食用に1個貰っていくんです。 5人で1個。

帰りにコンビニでパックのサラダを買って、カップルを冷やかしながら帰る。

これが鉄板コース。家に帰ってからも笑いっぱなしでした。

エアボーカルが流行っていて、口パクで歌って踊るんです。それを動画で撮っては

爆笑する。ダンスの練習もしましたよ。鏡がなかったので、夜、窓ガラスに向かって

踊るんです。昼間に先輩達から"盗んだ"振り付けを教え合いながら復習します。

お腹が空いたら持ち帰ったお弁当を、分け合って食べます。

着るものはスエットかジャージしかなかったし、外食なんて1度もしたことなかったけど

何とも思わなかった。昼間にレッスンでつらいことがあっても、

みんなと笑い合ってるうちに忘れられた・・・・」



地方組5人による共同生活は明るい未来を信じて東京にやってきた少女たちの


夢が詰まった場所だった・・・・


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「研究生のレッスンは・・・最初はレッスンにすらならなかったです。

研究生は正規メンバーが踊っている後ろで、スタジオの壁に挟まれながら見てるだけです。

それを見よう見まねで勝手に覚える。部活に入った1年坊主みたいな感じです。

とはいえ、みんな正規メンバーの誰かのアンダー(代役)を担当するから

必死になって覚えました。私は当時、チームAはともちん、チームKは梅ちゃん

チームBははーちゃんのアンダーでした。誰のアンダーになるかって

重要なんですよ。当時は出られるか出られないかの状況ですから。

バックダンサーでは公演には出られましたが、アンダーは正規メンバーが

休まないと劇場公演には出られません。だからみんなチャンスを待っていました」


ある時板野が劇場公演を休むことになった。

「ついに来たと。でもいざ出られるとなったら、ものすごい緊張に襲われて

私、楽屋で過呼吸になっちゃったんです。呼吸ができない。二酸化炭素を

増やすためにビニール袋を口に当てられてスーハースーハーやって・・・

先輩達から不安げに見られて情けなくて、ボロボロ泣いていましたき。

発作が収まったんですけど緊張は減らない。でもそんな時

たかみなさんが声をかけてくれたんです。

"大丈夫か?がんばろう!"って。それだけでしたけど嬉しくてまた泣いて。

アンダーって楽屋は先輩達ばかりで誰とも話せないし、自信がないから

自分をゴミみたいに思っちゃうんです。すごい孤独。

  だから、私も緊張で固まってる研究生がいたら、

  声をかけるようにしています。私も救われたから・・・」

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誰かにもらった優しさは、次の誰かへの優しさを生む。

指原莉乃の優しさはAKB48の良心とともにこうして継承されていく。


「私たちの頃はバックダンサーや前座ガールズは楽屋に入れなかったんです。

出番が来るまでエレベーターホールみたいな椅子もない狭い場所で

待ってなきゃいけない。半袖の衣装なのに暖房もないから寒くて寒くて!

みんなで体を寄せ合って足踏みしながらずっと妄想トークをしていました。

出番が来ると暖かい楽屋を通ってステージに出て良い曲だけバックで踊って

また裏で待つんです。最後の挨拶には出るからずっと待ってるんです。

  あそこは本当に寒かったなぁ。まぁ今となってはいい思い出ですね。

  きついけど自分たちの立場を知ったというか、精神的に鍛えられたし、

AKBの伝統として残してほしいですね」


現在はそんな事はないが当時のAKB48はまだ結成して2年半。

環境はかなり劣悪だったようだ・・・


指原莉乃15歳・ゴミみたいな存在の研究生時代はまだまだつづく。。。。


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↑サービスショット






















タグ:指原水着

奇跡のアイドル・指原莉乃物語 その1 [指原莉乃物語]

1、指原莉乃誕生からアイドルオタクの大分時代


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1992年11月21日指原莉乃は大分県で生まれた。


その6日後には元横綱の貴乃花と女優の宮沢りえさんの婚約が発表されて


世間が大騒ぎしていた頃の話です。


家族は両親と5歳違いの兄がいます。

お兄さんは運動もできるし頭もいい学校での人気者でした。

それに引き換え彼女は昼休みになっても教室に残るという

ちょっとくらいタイプでした。

小学校1年の頃にテレビ番組でモーニング娘。を知ってからは

アイドルにのめり込んでいきました。モーニング娘。が

loveマシーンでブレイクしていた頃ですから

子供たちだけではなく大人達もカラオケで盛り上がっていた時代だ。

ところが学年が上がるにつれて他の同級生は違うことに興味を持ち始めますが

彼女だけはアイドルの話ばかりしている変わった子でした。





小学校2年の時に自宅にパソコンがやってきました。

両親がパソコンを自由に使わせてくれたために操作方法を覚えるのも速かったし

アイドルのファンサイトから情報もらったりアイドルトークを交わしたりすることが

楽しみのすべてだった。

中学生の頃の指原莉乃が応援していたアイドルはBerryz工房の熊井友理奈

C-uteの萩原舞、それにモーニング娘。の亀井絵里だ。

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↑熊井友理奈さんの若いころ


彼女はそんなアイドルたちのコンサート行ったりイベントへ行ったり

握手会に行ったりするアイドルオタクだった。

当時の現場では結構有名なオタクでした。

なんといっても、手作りのメッセージボードをぶら下げて

全身にアイドルの生写真を身体に貼り付けてくる女ヲタなんてそうそういません。

そこまでアイドルにのめり込んではいましたが、自分がアイドルになりたかった

わけではないらしいです。その当時は「アイドルとはなりたいものではなく

見たいもの、愛を注ぐ対象」なのだった。

そんな彼女がAKBに応募したのは1つの事件がきっかけでした。



話は戻りますが、大分時代の彼女の知人友人たちが必ずこう言います。

「指原はすごく優しいです」

障害を持った男の子の世話役をかってでていたし、その子が給食を吐き出すと

「大変~」なんて言いながら、いつも真っ先に掃除してあげていました。

修学旅行の班決めで誰からも誘われない子がいると仲間に入れてあげました。

自分が悩んでる時は、必ず隣に指原莉乃がいました。とか、

大分時代の知人たちから語られたエピソードです。



ごく一般的な公立の中学校に入った指原莉乃は吹奏楽部に入りました。

「たまたま吹かせてもらったら音が出たから」と言う安易な理由で

トロンボーンを担当しました。

「変に目立つのが苦手なんです。みんなと同じじゃないといけないという

雰囲気にもついていけませんでした。結局、目立ちたくないから、将来的に

敵を作らない程度の消極的な優しさだけだったんです」



頑固に目立つことを避けていた彼女でしたが、中学2年生のある時期から

体育会系の女子グループに目を付けられていじめのターゲットになりました。

「はじめのうちは廊下ですれ違うと意味もなく爆笑されたり、

陰でぐちぐち悪口を言われたり・・・でも特別悩んだり、悲しいとかは思わなかった

ただ、なんでこんな事をするんだろう。私の何が気に入らないんだろうって・・・」




3年生になってもイジメは治まるどころかエスカレートしていきました。

「ある日学校から帰って家のポストを覗いたら、何も書いていない封筒が入ってました。

中を見たら汚い字で  もう学校には来ないでください。よろしくお願いします

って書いてありました」

彼女は鼻の奥がツンとするのをこらえると、「くだらない」とつぶやいて

その手紙をゴミ箱へ捨てました。

「誰にも言いませんでした。めんどくさいから・・・・心配されるとか」


その頃から学校に行くことに意味を見いだせなくなり、中3の夏休みは明けた頃から

不登校になりました。


進路を考える時期でもあったために、両親や塾の先生には地元の高校の

国際コース進学しそこから留学したいと伝えていました。



しかしそのひと月後予想もしなかった報告に家族全員が驚愕することになります。

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「 AKBの書類審査に通ったって母に言ったら驚いていました(笑)」



不登校で心配してるところにいきなりアイドルの1次試験に通ったなんて

驚かない親がいたら逆に心配である。



「東京に出たかったんですよ。私その年の3月に福岡で行われたAKBの

春のちょっとだけ全国ツアーにファンとして見に行ってたんですよ、母と」


この段階では母も本人も受かりっこないと考えていた。

だから面接の二次審査のために上京した時も2人とも観光気分でした。

しかしそれ以上に心配していたのは父親でした。

父は母に大分を発つ前にこう言ったのでした。


「受かるかもしれないから、担当者に言って、裏でこっそり落としてもらえ」


そんな父の心配をよそに彼女は合格後の飛行機の中で

母の隣で泣いていました。合格したにも関わらず。


「うれし泣きではなく不安泣きでした。だって、父が許すはずなかったから

母からもダメって言うだろうけど覚悟してね、みたいに言われてました」


自宅に帰って父に合格を報告すると


「好きにしなさい」と言ってくれました。ただし条件として

1人で上京なんてさせない。お母さんがついて行くなら許す。と言われました。

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こうしてアイドルオタクで不登校児だった田舎娘の状況が決まったのだった。

2007年10月、指原莉乃15歳・奇跡のアイドルの誕生である。

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指原莉乃さんは「かませ犬」ではないです。指原莉乃物語・序章 [指原莉乃物語]

指原莉乃さんは本当は気遣いのできる優しい人


写真集まで出して飛ぶ鳥を落とす勢いの、

アイドルらしくないアイドル・指原莉乃さんの事を何回か分けて書きたいと思います。





HKT48の指原莉乃(21)が7日、東京・福家書店新宿サブナード店で

写真集「猫に負けた」(光文社、1500円)の握手会を開催しました。

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この写真集は

テレビ東京系「指原の乱」(水曜深夜2・05)の企画で、

大手出版社の光文社を訪れ“直談判”して実現。10月に沖縄で撮影し、

ビキニや体にフィットした黒のレオタード、ベッドによこたわった姿など

バラエティー番組などでは見せたことがないセクシーショットに挑戦した。

 指原は「写真集は初めてなので、いい記念になりました。ファンの方に

喜んでもらえたらうれしいです」とコメント。

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↑胸は残念だけど・・・



 大みそかの紅白でグループ卒業を発表した大島優子(25)について、

指原は「席が空くという意味ではラッキー」とぶっちゃけトークで報道陣を笑わせたが、

これはジョーク。すぐさま「いや! 今まで優子ちゃんの背中を見て育ってきたので

寂しいです。それ以上に優子ちゃんが残したものが大きいので、簡単にラッキー

とは言えない!」と一転して危機感を募らせた。

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 昨年の選抜総選挙で1位を獲得し、大島超えを成し遂げた。

報道陣から秋元康総合プロデューサー(55)が次期エース候補に指原と

渡辺麻友(19)の名前を挙げたことを問われると、

「名前を出してくれたんですけど、絶対ウソなんですよ。かませ犬です」

とさしこ節全開。

「秋元さんも本当は(松井)珠理奈って言いたかったんですけど、

そうしたら(ファンから)『秋元さんはまた珠理奈が…』って言われるから

指原の名前を出しただけ」と弱音を吐いた。

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しかし、今年の目標には「選抜総選挙でまた1位になれれば」と豪語。

「勝ちたいのは?」と振られると「まゆゆって言わせようとしている!

 全員に負けたくないです!」と笑いながら質問をかわした。



というようなことを言っていますが、これは指原さんのキャラなので

面白おかしく笑いやジョークを混ぜながらコメントしたのだと思います。

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↑まゆゆ・さっしーのユニット曲「アボガドじゃねーし」





指原莉乃さんのことを少し振り返りましょう。

まだ記憶に新しいと思いますが、

彼女は2012年の総選挙で4位になった直後に過去の恋愛スキャンダルで

突然HKT48に移籍を命じられました。


総選挙で4位になった日が6月6日でした。

週刊文春が3年前の恋愛スキャンダルをスッパ抜いたのが6月8日でした。

その2日後、ラジオの深夜番組で出演が決まっていた秋元康プロデューサーは

指原さんを呼んで自らの口でファンに釈明するように言いました。

そしてその場で翌日からAKB48の指原莉乃ではなく、 HKT48の指原莉乃として

まだ1期生しかいないんHKT48を一緒に盛り上げるように言われたのでした。



その時のラジオの生放送を私はこの耳で聞いていました。

彼女は時折鼻をすすりながら、涙声で釈明をしていました。

博多行きを命じられた時も、戸惑いはあったのでしょうが

「わかりました」と素直に返事していました。


びっくりしたのは本人だけでなく、私もでした。

当時19歳の少女が、です。東京からいきなり博多に転勤命令です。

私なら耐えられず大泣きしていますね。。。。







電撃移籍のニュースはマスメディアでも連日のように報道されました。

がんばれという声も大きかったですが、処分が甘いという反応も少なくなかったです。

また、バラエティー番組で共演者にネタとしていじられて

笑顔見せていた姿に対しては、「反省していない」と言われ

叩かれて、叩かれて、叩かれました。


そんな中で彼女はHK Tのステージに立つために地道にレッスンを重ねていました。

そして2012年7月5日HKT48劇場での、チームH「手をつなぎながら」公演初日の

舞台に立ったのでした。


彼女は「ヘタレ」なんかじゃありません「へこたれない」人なんです。

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実はこの時期の彼女はとんでもなく多忙でした。

5月にはグループ内5人目となるソロCDデビューも果たし、連続ドラマの

劇場映画版も製作公開が決定していました。

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さらに、 6月6日の総選挙の後には、今をときめくグループアイドル10組が

武道館でまさかの大集結を果たすという、指原莉乃プロデュースの

ライブイベント「ゆび祭り」が6月25日あったのです。

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そんな超多忙ななか、 HK T劇場公演初出演のため彼女は0から

歌詞と振りを覚える必要がありました。

その数13曲+ αです。彼女に振り付けの先生がついてレッスンできたのは

6月28日・29日・ 30日と公演前日の7月4日だけでした。

ふつうはこんな短期間で覚えるのは無理でしょう。

しかし、彼女は相当な覚悟でそれをやってのけます。

覚悟のブログが残っています。



みなさんへ    2012-06-16 12:53:26



本当に、たくさんのご心配をおかけして、ごめんなさい。

昨日のオールナイトニッポンで、秋元先生からお話がありました。


私はHKT48に、移籍することになりました。


これからどうなるのか、それは、全くわかりません。


がむしゃらに、ひたむきにがんばるしかないです。

中略

HKTのメンバー、ファンのみなさんにすぐに認めてもらえるなんて、

思っていません。


HKTのみんなが、いままでの時間、がんばってHKTをつくってきたのも、

同じメンバーとして、わかっています。


とにかく、がんばります。


たくさんのご心配おかけして、本当にごめんなさい。



HKT48 指原莉乃


ブログに綴ったこの決意から彼女は超人的な努力をしてきました。

このブログのコメント件数は現在38300件を超えています。

そのコメントのどれもが彼女への応援メッセージです。

彼女のこの頑張りを認めているからこそ、たくさんのFanが

ついてくれるのでしょうね。



もちろんアンチ指原もたくさんいると思います。

ただ、2013年の活躍はアンチをも黙らせる大活躍でした。



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↑でも、美脚なら負けないわ。

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↑こういうの好きな人多いでしょうね。(私を含めて)



次回は「人間・指原莉乃」とは・・・に迫ってみましょう。。。??






↑Buono!とスーパーガールズとももクロのパフォーマンスが良かったです。

特にBuono!の「初恋サイダー」は圧巻!!歌謡力が抜群です。

見る価値は十分あります。


































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