国税
SSブログ
国税

奇跡のアイドル・指原莉乃物語画像付 その2 [指原莉乃物語]

2、泣いてばかりの辛く苦しい研究生時代・・・・


2008年1月母とともに上京し指原莉乃はAKB劇場でのレッスン初日を迎えていました。

母は東京で娘と暮らすアパートを探していました。 2つ目の物件を案内されていたとき

不意に電話が鳴った。

「お母様ですか? 莉乃さんが腰を痛めて動けないので迎えに来てください!!」

AKB48のスタッフからだった。




「初日も初日。踊りだしたら腰に激痛が走って立てなくなったんです」指原


駆けつけた母はレッスンから外れて通路のソファーにうずくまり

苦痛に顔をゆがめる娘を見た。

出鼻をくじかれた悔しさに泣く娘の横で、母は別のことを思っていた。

もし、このまま腰が悪いようだったら莉乃はこれで終わりなのだろうか。

今日、上京して来たばかりなのに、どうしよう・・・・・・。




「そしたら、先生にあっさり言われたんです。君、全然体を動かしてなかったでしょう。

急に踊ったから腰がびっくりしたんだよ。わははははは。 1週間安静にしていれば

治るよ」

医者に言われた事をクビを覚悟で恐る恐るそう告げた母にスタッフは

「それなら見学だけでもさせてください」と返事した。

母は思った。よかったやめさせられなくて・・・・



ところがその夜、指原は母に弱音を吐いた。

「レッスンが厳しい事は来る前から知っていました。でも体が無理だった。

それで、あんなのできん、大分に帰るって言ってしまいました」

それを聞いた母は突然怒りだした。

「何言ってるの!!

   みんなが、どんな思いであなたを東京に出してくれたと思ってるの!?

たった1日で帰りたいとか言える立場じゃないでしょ!!」


10125772094.jpg


・・・母は知っていた。私、 1人でも東京にいくからという娘の決意を。

だが同時に、家族をバラバラにしたくないという夫の本音も知っていたからだった。

「そんな経緯もあったのに帰りたいなんて言ったから怒られた。

 しかも翌日からは知らない人たちと一緒に共同生活をすることになっていたのも

 不安だったんです。友だちを作れないタイプなのに一緒に住むなんてありえない

 って思っていました。性格が合わなかったら地獄じゃないですか・・・」




4期生と5期生のうち地方から来たメンバーによる共同生活が始まった。

通称"地方組"と呼ばれる指原莉乃・北原里英・大家志津香・中西優香・卒業メンバー

の5人である。

あれほど心配していた共同生活は、実は天国だった。


「奇跡だったと思う。それほど気の合う人間が揃った。

   あの期間がなかったらきっと私、やめていたと思います。

   たった1ヶ月間でしたが、超仲の良いグループで修学旅行に行ったみたいな

   時間でした」


AKB48のトキワ荘とも呼ばれた地方組の5人は24時間一緒だった。

chihou130818.jpg


「朝8時ごろに起きて9時過ぎに家を出て、おしゃれスポットの恵比寿ガーデンプレイスの

中をスエット姿で通り抜け、徒歩10分のレッスン場に行きます。

終わったらまたみんなでぞろぞろと帰る。その時に必ずレッスン場で出される

仕出し弁当を夜食用に1個貰っていくんです。 5人で1個。

帰りにコンビニでパックのサラダを買って、カップルを冷やかしながら帰る。

これが鉄板コース。家に帰ってからも笑いっぱなしでした。

エアボーカルが流行っていて、口パクで歌って踊るんです。それを動画で撮っては

爆笑する。ダンスの練習もしましたよ。鏡がなかったので、夜、窓ガラスに向かって

踊るんです。昼間に先輩達から"盗んだ"振り付けを教え合いながら復習します。

お腹が空いたら持ち帰ったお弁当を、分け合って食べます。

着るものはスエットかジャージしかなかったし、外食なんて1度もしたことなかったけど

何とも思わなかった。昼間にレッスンでつらいことがあっても、

みんなと笑い合ってるうちに忘れられた・・・・」



地方組5人による共同生活は明るい未来を信じて東京にやってきた少女たちの


夢が詰まった場所だった・・・・


20110530_832234.jpg



「研究生のレッスンは・・・最初はレッスンにすらならなかったです。

研究生は正規メンバーが踊っている後ろで、スタジオの壁に挟まれながら見てるだけです。

それを見よう見まねで勝手に覚える。部活に入った1年坊主みたいな感じです。

とはいえ、みんな正規メンバーの誰かのアンダー(代役)を担当するから

必死になって覚えました。私は当時、チームAはともちん、チームKは梅ちゃん

チームBははーちゃんのアンダーでした。誰のアンダーになるかって

重要なんですよ。当時は出られるか出られないかの状況ですから。

バックダンサーでは公演には出られましたが、アンダーは正規メンバーが

休まないと劇場公演には出られません。だからみんなチャンスを待っていました」


ある時板野が劇場公演を休むことになった。

「ついに来たと。でもいざ出られるとなったら、ものすごい緊張に襲われて

私、楽屋で過呼吸になっちゃったんです。呼吸ができない。二酸化炭素を

増やすためにビニール袋を口に当てられてスーハースーハーやって・・・

先輩達から不安げに見られて情けなくて、ボロボロ泣いていましたき。

発作が収まったんですけど緊張は減らない。でもそんな時

たかみなさんが声をかけてくれたんです。

"大丈夫か?がんばろう!"って。それだけでしたけど嬉しくてまた泣いて。

アンダーって楽屋は先輩達ばかりで誰とも話せないし、自信がないから

自分をゴミみたいに思っちゃうんです。すごい孤独。

  だから、私も緊張で固まってる研究生がいたら、

  声をかけるようにしています。私も救われたから・・・」

2012062721451368c.jpg




誰かにもらった優しさは、次の誰かへの優しさを生む。

指原莉乃の優しさはAKB48の良心とともにこうして継承されていく。


「私たちの頃はバックダンサーや前座ガールズは楽屋に入れなかったんです。

出番が来るまでエレベーターホールみたいな椅子もない狭い場所で

待ってなきゃいけない。半袖の衣装なのに暖房もないから寒くて寒くて!

みんなで体を寄せ合って足踏みしながらずっと妄想トークをしていました。

出番が来ると暖かい楽屋を通ってステージに出て良い曲だけバックで踊って

また裏で待つんです。最後の挨拶には出るからずっと待ってるんです。

  あそこは本当に寒かったなぁ。まぁ今となってはいい思い出ですね。

  きついけど自分たちの立場を知ったというか、精神的に鍛えられたし、

AKBの伝統として残してほしいですね」


現在はそんな事はないが当時のAKB48はまだ結成して2年半。

環境はかなり劣悪だったようだ・・・


指原莉乃15歳・ゴミみたいな存在の研究生時代はまだまだつづく。。。。


8_2014010620311384b.jpg

8_20130709213241.jpg

↑サービスショット





















Sponsored Link


タグ:指原水着
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。